fukkatsuのブログ

鬱病治療中の日記です

「歩く」と言うこと

 普段、歩く時に右足、左足を意識していることは殆どないと思います。呼吸に置き換えて考えれば、瞑想や運動の後でもなければ自然呼吸を行っていますし、これを毎回、意識してやっているととてもじゃありませんが、疲れてしょうがないでしょう。

 鬱を発症以来、今日気づいた事ではあるのですが、歩くことが自然には出来ていなかったのです。一歩踏み出すたびに次の一歩を考えなければ前に進めません。脚も身体も重いので、まるで山道を歩くように一歩一歩を意識していなければ、立ち止まって休みたくなるのです。

 人が無意識でやっていることは少なくなくて、例えば横断歩道で信号待ちをしているときでも周りの人が歩きだすと(信号が変わっていなくても)釣られて歩き出すのも、その一つだと思います。ポケットにゴミがあればゴミ箱を探すのも、タバコを吸いたければ喫煙所に行くのも、自然な行動、つまり意識はしていても、その意識には殆ど思考は働いていないでしょう。

 ところが鬱を発症してからは、横断歩道では信号が青になった後で、青だよなと頭の中で認識をしてからしか歩きだせません。ゴミ箱探しやゴミ箱への移動が面倒くさくて、ポケットがゴミだらけになったり、喫煙所への移動が歩く行為を考えた結果、面倒くさくて禁煙状態になったりもします。

 スモーカーなら判ると思いますが、面倒だからと言ってタバコを吸わない事ってレアなことだと思うのですが、これが当たり前になったりしますし、拙宅では妻の作ったルールで屋内禁煙なのですが、部屋の中で吸わせてもらう状態になっています。

 ところが、今日、日課の散歩をしている時に、ほんの2-3歩ですが足が自然に動いたのです。もう少し正確に書くと普段なら無意識に立ち止まるような状況になりそうな場面で足のほうが前に進んだのです。僅かに2−3歩ですが、この瞬間だけは脚の重りも体についた鉄鎧も外れた、発症前の状態を感じることができたのです。

 よくインフルエンザなどから回復すると、健康が一番だと実感できると思うのですが、今日、一瞬でしたが、その実感を味わうことが出来ました。薬の効果もあるとは言え、少しでも回復した時を想像できたことは大きな希望になりました。まだまだ先の長い話でしょうが、嵐の中で一瞬でも日が見えたことは「止まない雨はない」と言う言葉を思い起こさせるには充分でした。

 同じ病気で苦しんでいる人たち、一緒に頑張りましょう!